2004年小笠原航海記

これは、2004年、2回目の小笠原航海です。

前回は、体調不良で八丈島に寄りましたが、今回も直接向かいました。なぜなら
海流の関係で、銚子⇒八丈島はけっこうむずかしいからです。
(前回は、八丈島の真横まで進み、体調の限界を感じ八丈島へ行きました。
 従って、潮の影響がありませんでした)

小笠原実績表 001
2004年4月25日 銚子⇒小笠原
銚子を出発小笠原へ向かいました。途中、少し風が強いことが一度だけありましたが、風向きは良く、何の問題もなく簡単に着く事ができました。小笠原へは、3時頃到着。真っ暗な海に停泊灯。すでに先客のヨットが漂っていました。私も夜間入港は危険なので、漂っていました。気が付くと既にヨットは消えており、私もあわてて入港しました。近道をすると浅瀬に乗り上げる危険があるので、右の山に沿って大曲で入港、6時着岸となりました。
第一回目の小笠原航海、即ち初めての小笠原。GPS頼りに小笠原へ向かいましたが、朝靄の中GPS通り小笠原の島が見えた時は感動しました。

2004年5月11日 小笠原⇒銚子
帰りも順調に航海しましたが、13日八丈島を過ぎたあたりから時化が始まり、揺れがあまりに激しく、船底が波に叩かれるので、ヒーブーツしました。確かに静かに揺られているだけになり、横になっていましたが、1時間もすると飽きてきて、再び航海をはじめました。やがて時化も小さくなりこれで大丈夫だと安心して航海を続けましたが、6時間ほどして再び時化がはじまりました。多分前線がYの字にあったのだと思います。銚子沖に接近した時は、時化もほとんど収まりましたが、夜中なので船速を落とし朝になってから入港しました。だいたいロングをして帰路はいつも時化の中を走っています。

これが当時愛艇だった。カタリナ320です。今の350よりは、船体の強度があると思います。
2004銚子出航 001

今回は航海写真を撮っていません。相変わらず疲れているので。八丈島を
過ぎると突然海の色がコバルトブルーに変わります。南だと実感する一瞬です。
2004自撮り 001
こんな感じで、毎日小さな山を征服して楽しみました。多分自撮り棒の
元祖は私でしょう。三脚の1本を伸ばして、上から撮影しています。
(祭りでは、更に、1本タイプを追加して空撮の様に撮影もしていました)

母島大砲 001
母島では、旧日本軍の大砲の前で。アメリカ軍は上陸しなかったらしい
です。要するに、食料供給責任のない捕虜収容所。
塹壕も多いですよ。日本兵になった気分が味わえます。

2004ダイビング 001
東京方面へ2時間ほど戻った岩礁でダイビングをしました。たしか「マグロ岩」
とか言っていました。マグロは居ず、ネムリブカとか言う1m位のフカと戯れて
いました。
ちなみにダイビナグは昭和46年ごろからやっています。2016年は与那国で
やりました。(趣味は、浅く広くがモットー)

先にコメントしましたが、小笠原は環境問題がうるさいので、油は一滴も漏らし
たらだめだと言われます。必ず洗剤で、中和液を作って用意しましょう。
無線は、ダイビングショップ「KAIZIN」の山田夫人がやっていて、この
業界では有名人です。12時20分~13時のオケラネット心強いですよ。
周波数 21.437MHZ

銚子~小笠原~沖縄~銚子のトライアングル航海を、アップしようと思いまし
たが、資料が船に置いてきたので駄目でした。今度船へゆくのは3月中頃で、来年春に、
近海の船検が切れるので、今年は最後の沖縄航海になるかも知れません。

兵藤さんお粗末ですみません。

兵藤さんなら。名古屋⇒八丈島⇒小笠原かな。途中、御蔵島へ向かった場合
「銭洲」という岩がありますので注意して下さい。神戸から日本一周に
出かけ、いきなり衝突して、沈没させるところでした。ここにぶつかると
思って、赤の蛍光ペンで囲っておきましたが、夜間赤灯の下で見ると、全く
見えませんでした。そのため、予定通りに衝突、ウイングキールと喫水線
部分を痛め波が来ると、船腹ときしきしするキールから浸水、松崎で修理に
1か月かかりました。

<小笠原⇒沖縄航海>(2007年?)
3回目の小笠原航海の時、思いっ切って沖縄へ向かいました。一か月の漂流を
予定して、食料を積み込み、他にシーアンカーを200mほど用意しました。
ウインドベーンは、日本一周のため南方諸島へ向かうのに、近海を取った時に
付けてありました。もし、エンジントラフルがあったら、神戸まで黒潮に乗って
帰るつもりでした。

小笠原から、沖縄は、6泊7日の旅でした。相変わらず単独です。小笠原を
出航すると、後ろから警備艇が追いかけてきます。何か問題?と思っていた
ら、「気を付けて行って下さい」と声をかけ戻って行きました。さすが観光の
島と感激しました。
毎日、太陽が前方に沈むと、後ろから月が出て、朝には前方に沈み、
又、後ろから
太陽が昇る。これの繰り返しでした。毎夜月を見ながら
一人「月の砂漠」を歌っ
ていました。月明りでギラギラ光る海は正に
砂漠です。月が明るい時に航海したのは正解でした。暗い海は寂しい
ですからね。
機帆走でしたが、燃料がギリギリだったので中間地点まで行ったとき、セール
だけで半日ほど走りました。しかしよく考えると、どんどん燃料を使って沖縄
近くで燃料切れを起こした方が安全だと気付き、残20リッタまで使おうと、
エンジンを回しました。
燃料節約のため、6ノット以上出ると、エンジンの回転数を1800とかに落と
していました。自動操舵、冷蔵庫と電気を使うので、帆走だけでは無理です。
当時ソーラを積んでいませんでしたし。もし、燃料切れを起こしたら、後は
ウインドベーン使います。嵐の中大東島を通過、太平洋の嵐は凄まじい物が
あります。
翌朝、一転穏やかな朝もやの中に沖縄本島を見た時は感動ものでした。燃料も
運よく30リッタほど残して、宜野湾に着きました。
昼、12時前にエンジンを止めて、帆走、エンジン音の無い静けさの中でオイル
点検。食事をしながらオケラネットで交信。(事前に、風向風速、気圧、波の高さ、
うねりの高さを調べて報告)
13時になったら、又23時間エンジンを回していました。それといつ嵐に
あうかも知れないので、補給に苦労しないように燃料は毎日補給していました。
ポリタンク4個の箱を作り甲板にも置きました。たしか全部で9個180
リットル積みました。(+燃料タンク)しかし、キャップをしっかり締めて
無かったため、波に叩かれた時油もれを起こし、ロッカーの中汚してしまいました。
大東島へあと一日と近づいた頃、風がパッタリと止まり、時化てもいいから
風が欲しいと考えていたら、2時間ほどたって、風が吹き始め、まもなく
とんでもない嵐になり、ひどい目に会いました。(詳しくは、後で)
一度うねりが後ろからやって来た事があります。その高さは初めての経験で
した。海の底から小山の上に上がる感じです。それほどの高さを感じました。
手で操船してみましたが、10分も操船できませんでした。後ろをおされる
ので、わずかな油断で船が横向きになってしまうのです。
幸い、以前ハンドルに付いていたひ弱なオートヘルムを、必要以上に大きな物に
変えていた事が役にたちました。(使わない、ウインドベーンもあります)
うねりが来て、船が持ち上がってゆくと、サーフィン状態になって、船が突っ
走ります。しかし、うねりの方が早いので、最後には追い抜かれ、山を登る
事になります。登りながら実は海の底に沈んでゆくのです。底に着くとまるで
どんぶりの底にあるサイコロの気分です。又、海底が上がって来てサーフィンが
始まります。
このうねりが、前の方からきたらどうしょうかと思うと、ぞっとします。
山の上に登ると、遥かかなたまで、うねった海が見渡せ、荒々しい風景が楽しめ
ました。半日(6時間)ほどがんばっていると、やがて静かになりました。
出航する時は、当然晴天を選びます。その場合高気圧の中心は本土側にあります
から、風向きは非常に良かったのを覚えています。
(日本列島沿いはほぼ向かい風ですが)
最後に忠告。毎日エンジン音を聞いていると、海から「お~い、お~い」と呼ぶ
声が聞こえだしますので、絶対海に呼び込まれないようにしっかりと、セフテイ
ハーネスを着用して下さい。

<どんな嵐に会ったか>

大東島まで、後1日を残し、風が弱くて思うように進みません。時化てもいい
から風が欲しいと思いました。私の願いが通じたのか、2時間ほどすると風が
出始めました。しかし4時間もたたないうちに、嵐になってしまいました。
私は、嵐などお願いした覚えはありません。
いつも、セールは早く縮帆する。これが外洋クルージングの基本。2ポンにして
機走していましたが、嵐になり、今資料がありませんが、3時方向40f以上、
波高5~6mくらいだったと思います。
嵐の気配がしてきた段階で、3ポンまで落とすことにしました。
今回このため3ポンを付けてもらったのです。しかし3ポンにしてみると、
なんと、余ったセールを中間で縛る穴が開いていないのです。ですから2ポンの
穴で縛る事になり、余ったセールに波をかぶると、袋になりブームに海水が
溜まってぶら下がり、不安定になるのです。
従って、ジブフセールをもっと小さくする事にしました。しかしすごい嵐です。
巻き込もうとすると、シートがバタバタと波打つのです。そのうちシートが
互いに結び合い、巻き込めなくなってしまいました。
この問題を解決するために、船首に立ちました。足元の周囲は海なので、
その感じは、嵐の海の中でたらい船に乗っている感じでした。なんとか
ほどこうとしましたが、風の力で強く締まっているので到底不可能でした。
しかたなくあきらめました。この間、一度として大波がかぶって来なかった
のは幸いでした。
6泊7日、この間、この嵐の時、たった一艘の船にあいました。白い一見
調査船風の船で、近くに来るまで全く気づきませんでした。ヨットの100
m位前方を横切って行きました。様子を見に来たと思われます。遭難と間違
われたらいやなので、見栄を張って、船尾で腕を組んで立っていました。
なるようにしかならない。船室に入って寝る事にしました。もう何の工夫も
できないからです。それに、船室に入ると太平洋の真ん中にいる感覚がなく
なり、桟橋に船を付けている感覚になって、あまり不安を感じないからです。
(船の中は我が家で平気ですが、ホテルへ泊まるとホームシックになります)
又、ヨットが横転した場合、復元に問題は無いでしょうが、人間は溺れます。
これ以上対策がないので、しっかりとハッチを閉め、嵐の事は考えません。
GPSを見ながら「ああ、今大東島を過ぎたな」と思いながら朝を迎えました。
外に出て見ると海は静かになっていました。但し船内は、落下物でめちゃくちゃ。
ジブファーラーを見ると、下の写真の様に絡まっています。激しいバタつきで
セールが裂けていると思いましたが、このまま航海を続け、宜野湾でほどいて
見ると、問題がなくてほっとしました。
大東島通過 001

<番外編:これが僕のスタイルです>

現在の愛艇、カタリナ350。濡れた物を掛けるための、独立したシャワー
室と、セールを仕舞うのがつらくなってきました。マストを変えたかった
ので、買い換えました。ドジャーは良く出来ていますが、幅が4mもあり、
広いので、風の影響を受けやすく、航海というより、居住するための船です。
向かい風の時は、雨が降っても中央のドジャーを跳ね上げて航海しています。
画像 166

①船から、岸壁にかかっている。梯子に注目して下さい。乗り込み
用の足掛かり
パイプがあり(梯子の下部分)、これがある事で、桟橋
から多めに離して係船する事ができ、
波のショックを防げます。
岸壁が高い場合、これを上に向け、パイプに梯子を
差し込みます。
この仕組みは、最高です。いつも自慢しています。ロープで自立させる
ことができるので、2メートル以上の落差があっても、するすると登り
簡単に
もやいがとれます。(2018年、支え棒を製作しました)
又、船が流されそうな時は、自立させておくと、岸壁から離れても倒れ
ませんので、極めて安全です。
兵頭さんのように、日本中の港全部制覇
する勢いの人は、ぜひ製作してください。
上陸したら、付けっぱなしでロープを結んでおき、船側に倒します。
乗船する時、このロープを引っ張り岸壁にかけます。(下の写真参照)

又、梯子はスタンションのカーブに合わせて、作成しているので、
スタンションに
取り付ける事により、落水防止の働きもします。

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②ハンドルの前の、軽油タンクを入れてある箱に注目して下さい。軽油タンク
が青く見えます。四つ隅だけを固定した。透かし箱にタンクをいれています。
蓋を付けて、下には、灯油ポンプ。上で食事をしたり、入港の時海図を広げ
ます。底には、滑り止めを張って下さい。かなりの揺れでもなんとかなります。
自慢するのは、下の写真のように、コンパクトに解体収納できる事です。
そのため透かし箱にしています。下の写真は、不要になりばらして、縮小
したところです。空のポリタンクはいろいろな隙間に押し込んでいます。
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③絶対、ハーネスを外しません。航海中は24時間、寝ている時も
付けています。ハウスから出る前に、ハーネスを引っ掛け、外に出ます。
救命胴衣は意味がないので、着けるのは、出・入港の時だけです。
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④私の長距離航海用の朝食。
ご飯はパックを温め、ご飯の半分をよけて、卵かけご飯です。水を使わないため
です。納豆は、脳血栓予防のためです。野菜は、果物・玉ねぎから。総合ビタ
ミン剤・ゼリーの栄養補給剤はかかせません。航海中ビールはほとんど飲み
ません。小笠原~沖縄航海。漂流は、1か月を予定して食料を積みました。

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⑤なんのため、沖縄へゆくのか。
豚足の柔らか煮とオリオンビールを飲むためです。二日連続市場に行って
豚足とオリオンビール。三日目はどこかの食堂。毎日行ったら馬鹿かと
思われるので、この繰り返しです。
(沖縄で合流した息子と)
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オリオンビール、お土産に持って帰った事がありますが。他県では全く
美味しくありません。
そういえば、兵頭さんは「オリオン」でしたね。


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