jinnsei-okinaのblog

多趣味な男です。人のやっていることを見ると、なんでもやりたくなる。最後の趣味がヨット。趣味で忙しすぎて、これ以上増やせば仕事をしている時間がなくなると思い、避けていましたが、50代の時、会社で干されたのをチャンスに一級船舶免許を習得。免許習得とともに、カタリナ320を購入、翌年着岸も満足にできないのに日本一周などしてしまいました。2度のリストラをかいくぐり(石油ショック・バブル)ついでに自分で会社まで作ってしまいました。この間二つの会社から給与をいただき、無事定年退職。現在は「農業+カタリナ350」で自由気ままな人生を送っています。

タグ:東京オリンピック

長くて短い人生「JINNSEIーOKINA」があっちこっちへぶっ飛ぶよもやま話、

阪神淡路大震災/復興工事でのエピソードと労災事故


一般道が高速道路

今日は久しぶりに現場が休みになったので、神戸の災害の様子を見た事がない、(僕の現場、神戸の端でしたからね)行って見ようというので仲間とでかけました。神戸の街は通行規制がかかっており、神戸の主幹線は交通規制がかかり、一般車両は通行できませんでした。私たちは災害復旧事業者ですからA4の通行カードをもらっていました。これをフロントガラスの前へ置けば通行OKです。
青信号になると、警官が横道から出て来る車を完全に素早く遮断し、工事用車両が突っ走るんです。普段は50Kmの道路を警官が見ている前で80Km位で走るんですから、もうほとんど高速道路状態でVIP扱いでした。
しかし、それに目を付けたづるい人達は、通行書をコピーして走り始めました。交通量どんどん増える。これに手を焼いた警察は、警察のマーク入りの通行書を発行しました。・・・・・さすがにこれをコピーしたって話聞かなくなりました。

危うく落下事故/俺は体操選手か

プレハブの部材、主に壁ですが、これは両面に合板を貼ったパネルでできており、高さ2.4m・長さ3.64m以下の大きさの物を、パレットという枠の中に7~8枚立ててトラックに2個積み込んで運びこみ、これをクレーンで一気に現場の横に置きます。これを1枚づつ(室壁1面ずつ)クレーンで吊込み組み立ててゆきます。だいたい6戸ひと棟を1日で作り上げてゆきます。ですから、私の担当していた100戸等、6~7人で20日もあれば建て終わり、1棟は30日位で人が住めるようになります。
現場を見ると誰も居ません。工事いそいでいるので、皆が来た時すぐ作業できるようにパレットの中の部材そろえようと、2メートルあるパレットに登りました。
今度はパレットの向こう側に渡りたい。下に降りるの面倒だから、パネルにチョット乗って向こうに渡ろう。パネルは何枚か使ったので足かけると、ちょっとぐらぐらしている。
こんな事してはいけないんだけど、ちょっとだけと思い、足かけて渡ろうとした瞬間にドミノの様にパネル倒れこんだ。
私は立ったまま見事に足すくわれ。空中に仰向けに飛んでしまいました。実は私絶対的な危険に会うと気のせいか一瞬時間とまる。空中に浮いた瞬間考えました。平行棒の様に足を上げたままで、両手をお尻の下に差し出し、パレットの角鋼枠に両手を突こう。しかしこの勢いでは両手で支えるのは難しい。そこで私は両手で少し支え、そのまま落下して足を曲げて引っ掛けよう。‥‥作戦が決ったとたん落下開始。まず両手で平行棒の様に体軽く支え、丸棒と違って握れないので、手の平を引っ掛けたままえびぞって落下。足を曲げて角鋼を引っ掛け停止する事ができました。頭の下にはずらっとパネルを固定するための鉄筋棒。しかし「このバレット考えたやつ、落下事故に対する対策全くできていない。どうして鉄筋の頭曲げていないんだ」腹が立ってきました。落下止めれなければ、くし刺しになるところでした。何本鉄筋が刺さった事か。・・・・・・両手を角鋼枠に引っ掛けたまま、手でしっかりとぶら下り足を離して回転。回転しながら手を放して安全な所へ落下。着地成功
・・・・・・思いました「俺って体操選手みたい」運が良かった。・・・・結局はその後事故っちゃうんですが。とりあえず危機回避。

パネル置き、ワイヤ外して足滑らす/あばら骨3本折っちゃいました。

現場事故であばら骨3本折り、入院しちゃいました。事故って上手に誘い込まれるんです。避けるのは難しい。
現場は順調に進み、トップを快走。ここでもう一発ターボを利かそうと、工程を早める。別に無理して現場進めるなんて馬鹿な事したわけでは有りませんが。実力見せようとするなぞ、結局作業のリズム狂い見え張って大失敗。
・・・・・現場進めるんじゃなくて、事故に真っしぐら、進んじゃいました。この時点では結果は神のみぞ知る。
今日は午前中小雨。しかし、
あっさり諦めず「もしかしてしばらく待てば作業始める事出来るのでは」トラックから荷降ろさず待機させました。・・・・・ますます事故に向かっていますね。
小雨やまず、昼からでは組立完了しないので作業は中止。諦めた所で昼休み。でも長野からパネル積んで来たトラックに降ろしして帰さねば。午後、待機しているはずのクレーン探すが見当たらない。・・・・・これで事故決定しましたね。
仕方なくあまり使っていないもう一台のクレーンに指図。どこに降ろすかしばし思考、この日はくい打ち作業作開始と同時にパネル降ろし、その後パネル積んだ横のくい打ち完成する計画。しかしパネル降ろし遅れたので、降ろそうとした時点では基礎杭完了済み。現場にずらっと何列も杭が並んだ。そのため杭の横で荷物降ろす事に。
このクレーン車いつも作業に使っていなかったので、パネル降ろしに丁度良いワイヤー無い。短すぎるので、パネルの上に乗ってワイヤー外し。・・・・・・高さ60cmにまとめたパネル降ろす。これはワイヤー外し問題なし。もう一つ、パネル少しずらして載せる。これ足掛かりにしてパネルの上に登りワイヤー外す。「俺って頭いいなー」・・・・・これ聞いた神様「馬鹿か」ってつぶやいた。
ワイヤー外して降りようとした。掴まる所無いので足掛かりに①段差にポンと足ついて飛び降りるか②それとも見た目悪いが、きっちり後ろ向きに足かけてパネルに手突いて降りるか・・・・・・疲れているせいかパッと決断できない。それにも関わらず体は飛び降りるため前進。シュミレーションが行動に追い付かない。段差に足かけるが、体は既に前のめり、目の前に杭が見える。(パソコンで変換したら「悔いが見える」って出ました。神のいたずらか)これはまずい、体直撃する。思わず腕を交差させて十字ブロック。体真正面から杭に突撃(今回の時間停止はこの程度でした。体ねじれなかった)ブロックした右腕の内側かすってわき腹に杭が食い込む。
激痛が走り、ごろっと地面へ。しばらく息が出来なかったが、荷物は片づけなければいけない。痛みこらえて残った荷物降ろすように指示し、自分は公園のベンチに倒れこんだ。荷下ろしが終わるの待つつもりだったが呼吸が困難になる。・・・・・・こういう時の携帯電話。しかし電話がつながらない。上には高圧電線それが原因か。
設備業者が配管作業をしていたので救急車を頼む。一人公園の向こうへ駈けて行った。でも戻ってこない、救急車案内するためだろうか。・・・・・しびれを切らしてもう一人が様子を見に行く。これも帰ってこない。俺は息も絶え絶え、とにかくあばら骨が痛くて大きく息が出来ない。酸素不足の金魚状態。・・・・・これはやばそうだな。このまま死ぬのかな。もう一人の自分が上の方から見下ろして冷静に言う。
ついに残っていた一人、様子を見に行くって言ってしまった。・・・・・・・・自分が死にそうになっていると思い、気持ち悪くなったのでは。・・・・・・だれもいなくなった。静かな公園の中自分一人。物音一つしない。遠くで車の音。もう一度携帯をかけるがやはりつながらない。


それからややしばらくして救急車がやって来た。すぐ近くと言っても1Km位離れた所にある。確か「伊川谷病院」と言ったっけ。病院に担ぎ込まれる。・・・・・とにかく息が苦しい。わずかしか息を吸わないので酸欠状態。ダイビングやっている人なら常識だが、わずかしか息を吸わないとほとんど気管の中までしか入らず吐き出されちまう。吸った空気ほとんど役立たない。・・・・・「酸素吸入してくれ」・・・・「意味ないと思いますが」。心の中で「ふざけるな、俺が一番わかっているんだ」

救急隊員、役目だろうが、呼吸困難の俺から氏名・住所・年齢聞き出す。苦しい息の中からようやく伝える。・・・・・・引き継いだ看護婦さんも同じ事聞く、なかなか言えない。だんだん腹が立って来た。少しづつ息を貯めついに叫んだ「ふざけるな」。
いろんな診察している間に少しは痛み和らいだ。診断は右わき腹の背中側角部分のあばら骨3本骨折。そのため背中に血が溜まっている。手術は明日。個室頼んだので点滴打ちながら病室へ。
義兄に連絡とったので、心配してすぐ飛んで来た。虫の息の俺を見てビックリ。(帰ってから妻には死にそうだって伝えたらしい)
一応夕飯は食べた。夜になったら小便したくなった。だが尿瓶使うって言われ、これはまずい。掴まれたらどうしょう。絶対生き恥は晒したくない。ほとんど体は曲がらなかったが看護婦さんに手を引っ張ってもらって起きた。これはやばい看護婦さん手を放すかも、と思われるくらい引っ張ってもらった。すごく痛かったが、とにかくメンツの為に我慢。
個室だったのでその点は良かった。
次の日、「手術しなくてもよさそうだ。背中に溜まった血が自然に抜けるのを待つ」本当にホッとした。なんせ私は注射が大嫌い。小学生の時医者と看護婦蹴っ飛ばして逃走したんだから。切られるのは割と平気だが、突き刺すって残虐行為が我慢ならない。

妻が来る

翌日の夕方妻が来た。義兄から「死にそうだ」って言われ来たそうである。あまりに早い到着でビックリしたが当然か。
妻は、千歳空港から神戸空港へ着く。ところが神戸空港からの交通手段がない。空港内は大騒ぎ。妻がウロウロしていると(相当目立つほどウロウロしていたんだろうな)取材の為着いたTVの人声かけてくれた。事情を話すと船をチャーターしたんで載せて行ってあげるから待っていて。妻無事に神戸へ着く。神戸の事は良く知っているので(大昔神戸で働いていた)無事病院へ到着。元気そうな俺を見て一安心。連絡を受けた時は相当うろたえたらしい。其の後数週間、病院の個室で一緒に生活。

退 院
まだ少し退院には早いがそろそろ退屈。後1週間ほど入院していた方がいいと言われたが、もうすぐ新幹線が開通する(災害復旧が完成し)というニュースを聞き、現場も完成が見えたので(引継ぎもあるので、時々義兄につれられ現場を見にいっていた)新幹線が開通する日退院を決める。

リハビリ
退院してそのまま札幌の自宅へは帰らず、リハビリを兼ねて妻と二人、四国の四万十川へアユ釣りに。其の後球磨川、長良川などと竿を片手に渡り歩き、北海道へ帰って来たのは3週間後。1週間家で静養。会社へ復帰したのは退院から1か月後でした。(こう書くといかにもアユ釣りが上手なように聞こえますが下手の横好き、さっぱり上達しません。近年は全くやっていず、人生最後にもう一度楽しみたいと思っていますが実現するか?)
怪我の具合は、3本もあばら骨折れたので、太くなった部分がごろごろと擦れる。今は自然に変形したのだろう、エビ反らない限り感触はなく、手で触ると分かる程度になった。普段は全く気にならない。

仮設住宅
この仮設は、解体しやすいようにネジ止めになっている。その後役目を終え、たしかトルコ地震の復興住宅として送られたって話が伝わって来た。・・・・世界を旅してるんだ・・・・・・。


ザキヨット裁判」も読んで下さい。     俺は5年間頑張りました。
裁判所の判決がいかにひどいものか皆様に考えて欲しいと思います。手抜きに関し「未工事で有るとすれば、これは瑕疵ではない」との理由で却下された。工事代金は返してもらえなかった。このとんでも判決。偽証だと明らかなのに、それを注意しない裁判官。民事では偽証罪が成立したことがないでたらめさ。オカザキヨットは分っているから、偽証を繰り返し尋問時間を浪費させる作戦。・・・・・・だから悪徳業者は減らないんだ。
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長くて短い人生「JINNSEIーOKINA」があっちこっちへぶっ飛ぶよもやま話、

阪神淡路大地震/神戸復興に参加あれから26年


私はプレハブ住宅会社に勤めていました。当然神戸でも沢山の住宅立てています。会社内では、神戸への調査隊を入れるって話でもちきりでした。しかし、残念ながら私には声はかかりましたが、選定で漏れちゃいました。・・・・・・残念。
神戸へ行った連中と、神戸のディラーとの調査では、基礎にひびが入った建物は若干有っが、ほぼ全ての建物が無事って事を聞きホッとすると同時に誇らしく思いました。
調査に行った家の周りでは多くの建物が半壊・倒壊していましたが、その中にぽつりと無事に建っている建物。当社の建物を訪ねて行くと、お客様だけではなく近所の人たちも非難しており、人が沢山いてビックりしたそうです。いずれにしてもほとんど被害がなくて良かったです。(ただし、建物が無事だったため、近所のやっかみもあったそうです)

そうこうしている内に、大手プレハブ5社でたしか5,000棟の仮設住宅を建てるって話になり、当社も当然参加します。社内で人材を集め(当然僕も)静岡の研修センターへ集合しました。震災からちょうど1か月後の事です。
その時、すでに実際に建てる建物が出来ており、下請けの会社も(急遽募集した下請け)決っているので、明日全員集合してそれぞれの担当する下請けと顔合わせをし、仮設住宅を建てる(実物を使って建てる)研修をし明後日には神戸へ乗り込むという話になっていました。・・・・・この素早さはさすがだと感心しましたが、実際に工事が始まると我ながらその組織力には驚かされる事になりました。

全国から集まった他の社員は久しぶりに顔をあわせたので、旧交を温める為飲みに出かけましたが、私は行かずに明日私の下請けには工程表を渡そうと、一晩かかって工程表を完成させ、翌日には下請け業者に渡す事が出来ました。・・・・・そのため僕の下請けが一番早く工事にかかる事ができました。

研修が終わり、とりあえず沢山の荷物を持って大阪へ向かいました。大阪は以前土建会社に勤めていた時、西成ってところで、防潮堤工事をした事が有りましたが、もうすっかり大阪の事はわすれていました。(当時飲みに行くと、必ずパトカーのサイレンが鳴る、景気が良くて賑やかな所でした)
ホテルが分からないのでタクシーに乗ろうとすると、直ぐ近くだからと乗車拒否。沢山の荷物を苦労して持ち、横山やすしの「雲助発言」思い出し「大阪が震災に合っても絶対助けに来ない」と思いながら沢山の荷物を持ちトボトボとホテルへ向かいました。
翌日現場に行き、宿舎になるボロ屋(大家に失礼かな)に入りました。たしか三木とかいうところで、田舎の家でした。大勢で済むにはトイレが酷く、数日するうちに飛び散った小便でスリッパもジメジメする。朝は車のフロントガラスが凍る寒さ。そんな悪環境の中で工事がスタートしました。
私の担当した場所は非常に条件が悪く、私だけ孤立した状態で仮設住宅を建てて行くことになりました。(現場が離れている事と、なれない道の為、夕方の打合せに遅れその間色々と影口をたてられていたらしくて、何かと嫌味を言われました。ある時など我慢できなくて「お前たちに聞いてるんじゃない、所長に聞いてるんだ」と怒鳴りつけたこともありました‥‥こう言う事も関係して、一人だけ遠くの困難な現場に追いやられたのかな)
どれだけ条件が悪いかというと、本部は神戸郊外の丘の上、だだっ広いグラウンドの中にあり、その目の前に建ててゆくのです。当然、職人や大型トラック、クレーンなどは何処でも好きな所に車を止めておくことができました。材料の引取りも当然です。長野県から資材が運び込まれる高速道路にも近い。こんな条件の良い現場など有りません。・・・それに比べ、私の担当したところは、伊川谷のたしか包丁池というところで、住宅地のど真ん中に造成された小さな宅地でした。(多分、包丁池って池を埋め立てたのでしょう)
その区画ごとには出入りできない、胸まである金網のフェンスが張めぐされており、工事用に1か所だけ外して良いというのです。従って隣の区画に行くにもわざわざ出口からでて、又次の入り口に行くという不便さでした。・・・・・私はこれを「金網デスマッチ」と呼んでいました。しかし工事を進めて行くと大変な障害となり段々腹が立ってきました。なんせ早く隣の区画へ行くために絶えずフェンスを飛び越していたんですから。・・・・こんな物ぶち壊せ。ついに私は職人に命じてあっちこっちのフェンスを外してしまいました。この非常時にそんなもの知った事か。・・・・・結果として人が住める状態にするため外構を作って行くと更に外さざるを得ない状態になりました。何のために苦労したのか。
次に地盤の悪さです。方やグランドの土。こちらは舗装の塊が埋設されている悪地盤。ここに木杭を打つのですから、たまった物では有りません。打ち込み機械の鉄のハンマーが杭の反力に負けて、割れる事もしばしばでした。(木の杭ではなく、数多く打ち込むため、鉄のハンマーの方が壊れるんです)それほど酷い地盤に正確に杭を打って行ったんです。狂いがあると建物の組立スピードに影響しますからね。・・・・・プレハブは基礎が正確ならば後は簡単なんです。
次は、高圧線です。この間を縫っての住宅部材の建て込みは生きた気がしませんでした。
又、本部や宿舎は公園にあるため皆より1時間は早く出かける事になり、帰りも当然1時間遅れて帰り付く事になり、打合せでは仲間外れになる事もしばしばでした。

① 遠いので皆より早い出勤
② 区画が狭く金網で仕切られている
③ 敷地は、道路より高く金網の向こうは60cmほど高く傾斜地に
  なっている(その分敷地の平地が少なく、建物の端が法にかかる
  事もしばしい)
④ 産業廃棄物(舗装)で作られた、基礎杭や打ち込み機械のハンマー
  迄割れる最悪の敷地
⑤ 高圧線がクレーンの障害になる。風や雨があれば作業が出来ない。
⑥ 近くに学校(幼稚園?)があり、一番肝心な朝資材搬入できない。
⑦ 携帯電話が上手く通じない。高圧線かそれとも明石大橋のせいか?
  (今考えれば仮設電話を引くべきでした)

こんな条件で作業が開始されましたが、良かった点もありました。組立指導として「南雲」さんというベテランが付いてくれた事です。なんでも日本帝国海軍の南雲中将は親戚で、本人は南極観測隊の基地組立指導で南極へも行った、実力のある人でした。(俺の墓には、南極探検参加って文字刻むといつも言っていました)他には携帯電話を始めて使った事。電池は1日持たないので、標準電池の倍の厚さがある増設用電池をつかっていました。携帯電話が急速に小型化してゆく時代でした。・・・・・ついでに言えば義兄のマンションは、工事現場の向こうにある丘の下でした。これはラッキーでした。

どんなふうに建てて行くかと言うと

プレハブの部材、主に壁ですが、これは両面に合板を貼ったパネルでできており、高さ2.4m・長さ3.64m以下の大きさの物を、パレットという枠の中に7~8枚建ててトラックに2個積み込んで運びこみ、これをクレーンで一気に現場の横に置きます。これを1枚づつ(室壁1面ずつ)クレーンで吊込み組み立ててゆきます。だいたい6戸ひと棟を1日で作り上げてゆきます。ですから、私の担当していた100戸等、6~7人で20日もあれば建て終わり、1棟は30日位で人が住めるようになります。・・・・・従って「基礎」⇒「建て込み」⇒天井取付⇒折半屋根張り⇒内装⇒設備取付⇒完成となります。
この流れを毎日繰り返します。・・・・段取りさえ上手ならどんどん進む工事です。そのためにも工程表って大事なんです。・・・・・進捗状況を正確に抑え、次々と100戸の工事発注してゆかなければなりませんからね。

私は、神戸へ行く事が決まる前に、宅建の更新講習を申し込んでおり、事前にこの講習の為会社を休んで良いとの了解を得ていました。そのため、○○日から休むからと言うと所長ではない外野席が「工事が大変なのにどうして休むんだ」と非難轟轟。本当に腹が立ちました。皆は研修センターに集合した時には、皆が飲み会に行ったにもかかわらず、一人残って工程表を書き上げ、いち早く仕事を開始し、作業も他の担当者より進んでいるんです。・・・・「初めから講習会参加の了解を取っているんだ」と言っても騒ぎ立てます。・・・・・・・しかし私はしっかりと工程表を組、それを上回るスピードで工事が進んでいる。現場には頼りになる南雲さんがおり、何の心配もないので勝手にしろと思い、相手にせず、そのまま札幌に飛び講習会に参加しました。しかしくい打ちが難工事で有る事に変わりがありません。そこで行く前に札幌の工務店にドリル状の穴掘り道具2本を作ってくれるように依頼し。帰りはそれを飛行機に載せて運んできました。・・・・・・でも良かったことにそれを使う機会が無いままにくい打ち工事は完了しました。
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こんな簡単な道具ですが、非常に効率よく穴が掘れます




現場が完成し、下請けの監督とお別れの時、記念に1本くれませんかと言うので彼に1本上げて、自分も札幌に持って帰り、26年経ったいまでも重宝して穴掘りに使っています。ちなみに製作費は全て自分自身の会社持ちです。・・・・・私が使われていた会社では、小さな物いちいち請求するの面倒なので、けっこう自腹で補修材を調達し補修していました。・・・・いちいち買う物に文句付ける上司いますからね。

途中から、現場が遠すぎるって理由をつけて、完成した建物の一つに引っ越し一人でのびのびと仕事をしました。私は他人にどういわれようと気にしませんから。札幌の会社からは(自分が作った不動産会社)カニやその他もろもろの支援物資を送らせ。義兄の家に持ち込み、食事をごちそうになり、気楽に現場管理をする事ができました。・・・・・当社の建物住み心地いいですからね。
メインの工事が終わるころ私は事故っちゃって大怪我をしましたが、(これは続編で)仕事は順調に進み、一番早く現場を完成させる事ができました。・・・・・私にはメンツが有りますからね。絶対負けられません。完成は破壊された新幹線が開通する頃でした。

役所の担当者は、完成してゆく建物を見て(自分の現場では、100戸ばかりの建物が流れ作業で、次々と完成してゆく)、「年寄りを一番初めに仮設住宅に入れたのは失敗だった」と言っていました。なぜならば一番初めに完成したのは現場用の仮設建築物です。夏暑くて冬は寒い、現場ハウスに年寄りが住むのは体が大変だったでしょう。その点我々が建てた物は、基礎がコンクリートではなく木杭だっただけで、一般住宅なんですから、住み心地が全く違います。これより貧弱な住宅は神戸に五万とあるでしょう。

神戸震災完了記念品 002
神戸震災のすぐ後で買った、東京のマンション売り飛ばす為、権利書整理していたらこんな物でてきました。「応急仮設住宅竣工御礼」
4月4日に完了検査。6日引渡し。・・・・・ほぼ1か月でプレハブ5社。5千戸完成させたんですね。自画自賛になりますが、プレハブ住宅会社の総合力って凄いですね。・・・・・自分でも感心しました。

急いであらすじを書いたので、徐々に加筆してゆきます。まずは取り急ぎ・・・・・・。


次は、現場事故を含む「エピソード編」


ザキヨット裁判」も読んで下さい。     俺は5年間頑張りました。
裁判所の判決がいかにひどいものか皆様に考えて欲しいと思います。手抜きに関し「未工事で有るとすれば、これは瑕疵ではない」との理由で却下された。工事代金は返してもらえなかった。このとんでも判決。偽証だと明らかなのに、それを注意しない裁判官。民事では偽証罪が成立したことがないでたらめさ。オカザキヨットは分っているから、偽証を繰り返し尋問時間を浪費させる作戦。・・・・・・だから悪徳業者は減らないんだ。
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